昭和五十年八月十三日 御理解第三十四節
「此処に参っても神の言う通りにする者が少ない。皆帰ってから自分の良い様にするのでおかげはなし。神の言うことは道に落としてしまい、我が勝手にして神を恨むような者がある。神の一言は千両の金にも代えられぬ。有難く受けて帰れば土産は船にも車にも積めぬ程の神徳がある。心の中を改めることが第一なり。神に一心とは迷いのないことぞ。」
神の言う通りにと、こうまあ教えを守れと云うことでしょうね。なかなかあれもこれも、身につけて行くと云うことは大変難しい事です。けど、今神様が一番云うて下さること、今神様が一番心配しておられること、今神様がどうぞこうあって呉れと、これは合楽の御縁を頂いておられる信者の方達に願うておられること、云っておられること、その事だけ位には一つ皆が本気にならなければいけないと思うですね。
今どういう事を、云うならば神様が皆に願うておられるだろうかと云う事。
昨日は美登里会の研修会。研修会の中で私はあの十六日の御大祭の御案内が出来て来とる。いつも何十枚か余る様に作ってあるんです。その余ったのを、また信者の皆さんが各自で例えば、御親戚とか、又はお知合いの人達に一枚宛でも出させて貰うて、折角出すのなら的確に出せばお参りがまあその位の祈りを込めて出される様に葉書を私が皆これを配らせて頂こうと思うて必要な方だけはどうぞ取って下さい。
そりゃ皆さん五枚下さい、三枚下さいと云う人もいくらもありましたが、全然言わない人もある。勿論これは葉書ではなくて、それこそ一口言うて回って、それこそ示現活動して回ってその示現活動と云うこと、例えば御大祭。教会に何かあると云った様な時、一番しよいと思うのですよ、ね。
今私が合楽で一番云われておることは、いわゆる合楽示現活動に参画させて頂くことだと思うです。
皆さんが参画しておられるつもりでしょうけれども、果して参画さして頂いてどれだけ示現活動が出来ておるかと、もうこれだけでもね、例えば皆さんが心に掛けておる、おられないとするならば、おかげは頂かん。神の言うことはもう繰り返し、もうそれこそ、口を開けば合楽示現活動を言われとるのに、もうこれはまるきり人事のごと思うとる。人事のごと思うとる証拠にはね、例えば私が昨日まあ云うなら、美登里会と云えば合楽で御婦人方の中で熱心な方達ばかりの、ま、いわば集まりです。その人達がさあ五枚も三枚もと云う人もありますけど、私はそういう人達には申しました。五枚も持って行ってあんた的確に間違いない様に配らにゃいけないよと、私がだから書いてポーンと出しちゃでけんて、そして自分の余白のところに書いて是非お参りして下さい、もしお参りになるときにゃ、電話でも掛けて下さい。家の車で迎えに行きますけんとか何とか自分で考えて工夫して書かにゃいけん。その位な意欲も持たずしておいて、おかげが頂けんおかげが頂けんと云うのは、私はおかげの頂けん方がほんなことだと思うです。
今、神の言うことは、今合楽の神様の言いござることはどういう事か、今私が一番それこそ、頼む様に言っておられることは合楽示現活動に参画して呉れと云うことだと思うです。どうでしょうか。成程自分がおかげ頂かん筈だと一つ分からにゃいかんです。
そして今度の御大祭にはどんなことがあっても、ね、一人位は示現活動させて頂いて一緒にお参りさせて頂こうと云う位なね、願いを立てにゃいけんです。
それが受けて立つ事であり、受けて応える事です。
本当に私は例えば、自分の周辺に私が信心しておることは大変知れ渡っておるでしょう。皆さん合楽に参っておられると云うことは、ね、だからそういう一つのチャンスです。いつも祈り願い願っておればです、そうしなければおられないものが必ず生まれて來はせんだろうか。
最近の御理解の中にもございましたですね。
先日から新霊様をお祀りしておるこん年寄りの部屋に、その晩皆〇少の会合で出ておりませんでしたから、私が一人あちらにやすませて頂いた時のことが御理解に出ておりますね。そしてお夢を頂いた。霊様が何か一番求められる様なものがあったら、夢の中でも頂きたいと云う様な気持ちでやすませて頂いたら、あの部屋の鈎の手になっておる廊下の外に親戚の者がいっぱい廊下の方へこうやって何か気兼ねのある様な感じ、中にも入りきらんでおる様な感じで頂いた。それでもし、母の霊が私に言いたいことと云うならば、外に云うこたなかばってん、親戚をもちっと大事にせろと云う様なことではなかろうかと、感じたと云う話を致しましたですね。
それはね、信心しとればもっと大事にするけど、信心しないもんですから、まあ初めの間は何回も何回もまあ、信心しなければいけないと云うことを云うけれども、かえって反発する様な態度をとるもんですから、もうその人だん言うたっちゃ分からんと云う様な私の思いが、ならねしごのがあって、親戚の方達がここへ来ましても、やはり此処で気兼ねな思いをしとるとじゃなかろうかと思うて、私は気付かせて頂いて、こりゃ本気で親戚の者を大事にせにゃいけないなと気付かせて頂いたと云うことを話しましたね。先ず自分の足元から、先ず自分の親戚からこれが一番親身に接せられるものです。 一遍二遍云うたけれども、かえって反発したからと云う事でじゃなくて、本当に自分自身がおかげを受けておる、助かっておる。そしておかげを頂いておることが分かれば分かる程、何か機会を狙ってそして話でもして貰わねばおられないと云った様な、親戚を大事にすることではないかと云う風に頂いた様にね、大祭の時にはそれこそまあともかく拝まんでん見げに来ただけでん、見げ來んのと云う様なです、云うて家の車で迎えに來るから位それこそ、言うてからでも私はそういう心掛けが合楽示現活動に参画しとる者の当然の私は行き方ではないだろうかと思うのですが、どうでしょうか。あんまりそれこそ、口を開けば合楽示現活動である。あんまり言われるからかえって当り前になっておると云う様なことではなかろうかと思います。
滅多に参って来んです。一月に一遍か二遍かしか参って来ん。だからと云う様な者の方がかえってピンと來ると云う感じがするですね。昨日は久し振りで中島の上滝さんが参って来とります。その話を聞いてから一寸一足先に帰って、私がここに座っとったら出て来た。久留米の市ノ上に亡くなった主人の姉さんが居られる。だから帰りに大祭の事を一寸寄って帰りたいと思いますから、先に帰りますとこう云う。そんならこの案内を持って行きなさいと云うてから、持たせました。もうそれこそ、滅多に参って来んから初めて、例えば聞いた者の方が新たな気持ちがするのではないだろうかと思います。毎日毎日云うならば、聞いても神の言葉は何処でか落としてしもうてもう聞きも居らん。いよいよ合楽示現活動に参画さして貰うことに信心を絞らせて貰うことが第一ではないかと云うことが言えると思います。
昨日一昨日午後四時の奉仕の時にでした。四時の御祈念を終らせて頂いて、丁度熊本の富永先生が祈願祭のありましたその御礼お届に見えとりました。それで私はあの御礼を申させて頂きよりましたらね、この眼の玉をね、何か刃物でえぐり取る様にね、えぐりとる様な情景を、まあ実に惨たらしいことですね。この眼の玉をえぐり取ると云う、そういう御心眼を頂いた。どうしたことじゃろうかと思いました。そしたら御理解に、迷いは心眼の を開く前提だと頂きました。
迷い。ここには神に一心とは迷いのないことぞとあります。この迷いのことです。信心を段々頂かせて貰う。しかも広う、深く分からせて頂く。必ず分からないことが出て來る。本当に迷うと云うことはね、もう信心を止めようかと思う程しの事じゃ、そういうことじゃないです。本当の事が判りたいと云う一念から判らないことにぶつかる。そして右往左往しておるのです。どうすることが本当だろうかとしておることが迷うのです。
もう此頃は了解らん様になた。もう信心も止めようかと思うと云う様な迷いとは違うと思うです。そういう迷いでは、云うならば肉眼をおいて心眼を開けと仰る。幽霊が迷うた様に迷うたになってしまいましょう。
本当なことが分かりたい。私は椛目時代に五日間位、この迷いのために御飯もいけん位に、晩寝ても眠られん位に迷い抜いたことがございます。本当に迷い抜いて分からないときに、色々のことをずーっと思うとりますとですね、この胸が突き抜ける位痛くなるですよ、ね。歌の文句にありますよね、胸の痛みに堪えかねてと云う様な何かを一心に思うて思い続けておるとですね、胸が痛うなって來るです。神様一寸暫く楽にさせて下さいと思うことをいっときばかり思わせんで下さいと云う位に胸が痛むです。晩寝んでおると着物が掛かっておるその着物が人に見えて來るです。本当に迷いに迷って分からない、ね。五日目に開眼した。それから私の信心の世界と云うものは、もう大変な大きなものになって来た。迷いが開くと云うことは信心が深くなる。又は広くなる。視野が広くなって來る。それにはね、先ず肉眼を切り取らなければならない程しの厳しいことだなと思います。
まあ此処では親先生が噛んで含める様に御理解下さるからわかり過ぎるごと分かると云う人があります。それは分かっとらん証拠です。
私が言うておることを、いわば神の言うこと、神の一言としてなら頂いて帰って本気でその事を行じてご覧なさい。必ず分からんことに出会い致します。
此頃大口教会の安武先生が来てから、親先生、成行きを尊ぶとか、大事にするとかは大変素晴らしいことだと分からせて貰い、いよいよ成行きを尊ばせて頂き、いよいよ大事にさせて頂きよりましたら、お取次が出来んごとなりましたと言うとるです。取次者としてこんなにこれは致命傷です。
私はその内容を詳しくは聞きませんでした。そういう様な時にです、私共は、例えば一言は千両の金にも替え難い程しのものですから、有難く頂いて帰ると云うことは、聞いて帰ると云うことだけではない。有難く頂いて帰ると云うことは、それを聞いてその日の、云うならば実行に移さなければならん。それを途中で落としてしもうて、ええと今朝の御理解はどげなこっちゃったかと云うて忘れておる様な事ではね、残念なことです。
そして行じてみる。そこから、ああ成程と云うおかげに触れることも出来ましょう。又行じてみると分からんところが出来て來んならん筈です。それでそれをまた、翌日お伺いでもしてみるとか、そこんところを本気で心に、いわば練ってみるとか、そこから翻然としたものが開けて來るおかげを頂く。翌る日聞いてみる。まだ分からん。行じてもみるけど尚分からん。ついにお取次が出来んごたる羽目になってしまった。
ね、これは私は安武先生が本気で私は分からせて頂くことに精進されたらです。随分苦しい事でしょうけれどもです、それこそ肉眼をおいて心眼を開くと云うことは実際にです、例えば成行きを大事にすると云うことでもね、右にすることが成行きを大事にする事か、左にすることがそうか分からない事があるです、ね。そういう時にはやはり、心の眼をもってしなければ分からないことであります。 そこにはね、迷いが起きて來る。その迷いにです、苦しみ抜くと云うか、それを求め抜くと云う姿勢をもってする時に、それこそ一日も二日も御飯がいけん位に思う位な思い、それこそ胸が痛くなる様な思い、その位な真剣に私は取り組ませて頂くと云うことがです、神に一心とはと云うことになると思うです。
そこから、それこそ翻然として眼が開けて來る。今まで難儀と思うておった事は神愛であり、今までこれはいけないと思うておった事は返って神様が歓んで下さる様なことであり、と云う様にも限りない大きな世界がそこから開けて來るんです。
どうでも信心の稽古をしておるのですから、なら頂いたみ教えを有難く頂いて帰って、船にも車にも積めない程しの神徳があると仰せられるものを、私共が頂かなければいけません。
それにはです、私共が本気でその事に取り組んで見る。取り組んでみると容易い事の様であっても難しい。いや分からない事すら起きて來る。いや、迷いさえが起きて來る。
そこの迷いを、いわば突き抜けると云うことは、或意味で肉眼を採り抜かれる位に厳しい事である。そこから肉眼を取られて心の眼が開けて來る。そこから広い広い世界が開けて來る。もっともっと深い世界が開けて來る。そこからいよいよ神に一心とは迷いのないこと。いわゆる本当に迷いの起こらない、云うならば迷いのない世界が開けて來ると云うそこを頂かなければ、そこを只こう、いわゆるドライな考えで割り切った考えで行ずるのと、心の眼を開いて、と云うのは全然違うです。ドライに割り切ったのでは御徳は頂かれません。心の眼が開いてそれが分かった時にです、初めてそれが御神徳になるのです、ね。それにはやはり神の一言を素直に聞かせて貰う姿勢、今合楽で一番繰り返し繰り返し云うて下さっておる事は、神様と氏子が一緒に本当に助かり合うて行くと云う合楽の世界。そのためにはどしても、いわゆる示現、神様が示し現して下さる不思議な働きに便乗させて頂いて示現活動に参画させて頂かにゃいけん。 昨日、一昨日でしたか、此処の指出地区の共励会でした。今日は私の方で村内の方達にでも集まって頂いて、此処には参って来ない方達にでもお話をして、どうでも示現活動さして頂きたいからと云うお届けが、久保山さんからあっておった。
今日は丁度お客さんのお掃除の日でもありますから、村内の方が皆集まるから、そこでお話させて頂きたいと思う。今晩先生方が見えてお話があるからと云うて誘うと思って居ったところが、とにかく言い出す機会がない位にしまえて一日が済んで仕舞うた。
あれ程お願いさせて頂いて居ったのに示現活動が一人も出来なかったと思わせて頂いたら、偶然やはり村内の方で呼び止めて私の話を聞いて下さる方があった。
ああそげなことならどうでん今晩教会には参んなさらんでん私の方でお出ち下さい。とにかく色々詳しく聞いて本当に実を云うたら、今晩でも行きたいけれども、この次にひとつどうでん寄せて貰う。今晩はこう云う事情があるからと言われて、お話をこの次は是非寄せて下さい。お話を聞かせて下さいと云う方があったから、やはりお取次頂いとかにゃ出来ません。思いも掛けません人に示現活動が出来ましたと云って昨日御礼のお届けがありました。
ね、やはり示現活動に参画すると云うことでもです、本当にお取次を頂いて願うところにです、云うなら神様がそこに不思議な働きをそこに示し現してある。それに便乗させて貰う様に示現活動さして頂くと云うおかげを頂かなけりゃならん。
今、合楽で一番皆さんに聞いて頂きたいのはその事である。
実行さして頂きたいのはその事である。何か一つ機会がなければ出来ない、いわゆる誰でも願いを持たない者はない。
その願いの御大祭と云われるところの夏期大祈願祭が十六日に行われる。それこそ一人でも示現活動さして貰う。こういうチャンスは何日もはないのですから、御大祭がある時が一番そういうチャンスだと思わせて頂いて一つ割り切らずにね、本気でその気になってです、そして一人でも二人でもお導きさして頂こうと云う、そういう行き方がです、自分の良い様にすると云う事でなくて、神様の言われる事を聞かせて頂くと云うことにも、取りも直さず私はなると思う。先ずそういう今、一番願われとる、一番身近なところからです、いわば一番身近なもう迫っておるところの大祭にです、例えば日頃頂いておることを現させて頂こうと云う願いをね、皆さん持たれる様なお繰合わせを頂いたら有難いですね。そしてそこから一人が助かり二人が助かることになれば、一人を助ければ一人の神と仰るのですから、二人を助ければ二人の神になれるのです。いわゆる御神徳が頂けると云うのですから、今日一日本当に取り組まねばいけません。
そうにやお話は聞きよるごたるけれども、それを道に落として仕舞うとる様な結果になったんではおかげになりませんね。 どうぞ。